子どもの貧困が日本で語られるようになったのは2000年代の後半くらいからでしょうか。2013年には市民団体からの働きかけもある中で与野党から子どもの貧困にかんする法案が出され、その後一本化された「子どもの貧困対策の推進に関する法律案」が可決されました。この間、いわゆる「子ども食堂」が全国的に展開されていき、最近ではそれ以外の多様なサービスに着手する支援団体・社会的企業などもあります。「子どもの貧困」について語ること、そしてなんらかの支援をすることは一つのムーブメントになっていると言っても良いかもしれません。

このような状況の中で、さまざまな人が、このムーブメントについて積極的に評価しているように思います。先に留保をつけておくと、私は子どもの貧困に注目することや子どもの貧困に積極的に対応することそのものについてなんら異論はありませんし、さまざまな方々の活動に敬意を払っています。ただ、そういった話を聞いたり読んだりするなかで、私は子どもの貧困の語り方についていくつか素朴な疑問を感じたのでその点について少し書き記しておきたいと思います。

「子どもの貧困」と自己責任論

「子どもの貧困」はなぜ語られるのか?

そもそもどうして子どもの貧困はここ最近頻繁に語られるようになり、また対策も急ピッチで進んできたのでしょうか?
大きな理由の一つはおそらく、子どもの貧困については「自己責任」を問えない/問われづらいというものでしょう。「自己責任論」を仮に「貧困は自分の行動や意思の結果なのだから、それには自分で対処すべき」という論理だとすれば、子どもについて自己責任は問えず政府や社会が対処すべきだという考え方が共有されやすい(と思われる)からこそ、政府や市民が動き出し、子どもの貧困も語りやすいのでしょう。「子どもの貧困」は自己責任論と対決することを回避して物事を動かしやすいトピックであると言えるのかもしれません(註1)

「子どもの貧困」は自己責任論を克服しているのか?

では、もう一歩進んで、「子どもの貧困」は自己責任論を克服していると言えるでしょうか?
残念ながら違うと思います。むしろ、「子どもの貧困は自己責任ではないのだから政府や社会が対応すべき」という考え方は自己責任論の延長線上にあると思います。なぜなら、それは「貧困は自分の行動の結果なのだから、それには自分で対処すべき」という論理にあくまで則った上で、子どもの貧困は子どもの行動の結果ではないと主張することによって、問題への対処を要請しそれを正当化する言い方だからです。これは自己責任という考え方をある意味逆手にとった戦略と考えられますが、そのような戦略は自己責任論の土俵をさらに押し固めることにつながるのではないのかな?と思います。

もちろん、自己責任論と対決して時間と労力を取られるよりは、一刻も早くことを進めて実効的な支援ができたほうがよいという考え方はあるでしょうし、子どもの貧困について語る際に上記のような戦略を取っている方の多くは、今まで散々自己責任論とたたかってきた上であえてやっているのだろうとも思います。
しかしこのような戦略をとった場合の将来的な展望はどのようなものになるのでしょうか?これが2つ目のポイントにかかわってくるのではないかと思っています。

「親」の貧困、「親以外の大人」の貧困

親の貧困?大人の貧困?

もう一つ、子どもの貧困に焦点を当てることに積極的な語りにおいてよく見られるのは、子どもの貧困についての議論が盛んになることによって、大人の貧困についても光を当てられるのではないか、という話です。まず、素朴な疑問としてその「大人」は誰のことなのでしょう?おそらく多くの場合想定されているのは貧困状態にいる子どもの「親」のことでしょう。貧困状態にいる子の親への支援については――簡単ではないものの――、多くの人の理解を得やすいでしょうし、実際、親子セットで支援やサービスの対象となることはしばしばあります(なお、これは現在の日本における家族についてのある特定の考え方に影響を受けているのでしょう)。

ではそれ以外の大人はどうでしょう?おそらく、子どもの貧困が大人(親)の貧困に光を当てるという言い方をしている方の多くは、「親の貧困について語るだけでは狭い」という批判が寄せられることを予期し、それを利用して「親」からさらに「親以外の大人」の貧困についても議論の対象を拡大させていくことを念頭に置いているのだと思います。

「親以外の大人」の貧困?

もしそうだとすると、どうやってでしょうか?
「親の貧困」から「親以外の大人の貧困」に話をつなげるとしたら、両者に共通するトピック――例えば、労働や教育、ジェンダーに基づく不平等――について語ることで、「親以外の大人」の貧困についても行政や社会による対処を要請し、その要請を正当化していく必要があると思います。ただ、どのようなトピックを利用するにせよ、そこには再び自己責任論の壁が立ちはだかるような予感がしてなりません(例えば「そんな劣悪な企業に就職したのが悪い」「貧困でも勉強を頑張って高給取りになった人はいる」「専業主婦を選んだのは自分だ」など)。子どもの貧困への対策を「子どもは自己責任が問えないから」という言い方で正当化した場合、「親以外の大人」の貧困についての対処を求めていく道は今よりもなお狭まってしまうのではないでしょうか?

「親」の貧困と「親以外の大人」の貧困について、誰しもが関わるようなイシューを提起して間接的に貧困にアプローチするということも考えられるでしょう(例えば「労働環境の全体的な悪化」)。しかし、そのような場合、焦点が「貧困」からずれていき、「貧困」への対策は間接的なものないし防貧的なものになるのではないかと思います(例えば「最低賃金を上げて貧困を防止する」など)。もちろんそのようなアプローチはそれ自身として評価されてよいのだと思いますが、それでも貧困状態になる人はいるわけですし、そのような人々への対策を訴えるときにはやはり自己責任論の壁が――今よりも高くなって――立ちはだかるでしょう。「子どもは自己責任が問えないから」という理由で子どもの貧困や親の貧困への対策が正当化された社会において、その壁を越えることは今よりもさらに困難になるような気がします。

何を、誰に語るのか

それでは、子どもの貧困にしろ、親の貧困にしろ、あるいは親以外の大人の貧困にしろ、どのような語り方をするのがよいのでしょう?もちろん、これはここで解答が出せるような問いではありませんので、これについては引き続き考えていく他ないと思います。しかし、いずれにせよ上に述べた意味での自己責任論そのものを解体するための語りは続けていくべきだと考えています。

その上で、〈もやい〉や私が今すぐにできることは、おそらく語りかける相手をこれまでと変えていくことでしょう。〈もやい〉はすでに各地でセミナーを開催しており、多くの方々に参加いただいていますが、申し込み制であるため、参加者の多くはすでに貧困問題にある程度の関心のある方々です。今後、貧困問題について考えたことがなかったり、自己責任論のような語り口でしか貧困について聞いたことがない方々――その中でもとくに、今までなかなかアプローチできていない高校生以下の方々――の耳に届くような取り組みを推し進めていければと考えています。[了]

※註1:もちろん、これ以外に子どもの貧困を放置することは子ども本人のみならず将来的には社会全体の損失になるといったいわば「社会への投資」という文脈で子どもの貧困が語られることもありますが、ここでは話が煩雑になるので割愛します。

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ABOUTこの記事をかいた人

結城翼

1993年神奈川生まれ。東京学芸大学で社会学を学んだ後、イギリスのバーミンガム大学国際開発学部修士課程を修了。専門は都市再開発とジェントリフィケーション。大学生の時から東京都山谷地区及び渋谷区で野宿者支援運動に関わる。現在は認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやいで生活相談・支援コーディネーターとして勤務。