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もやいブログ

2017.1.13

おもやいオンライン

【特別寄稿】「地見屋の風景」高松英昭さん(写真家)【おもやい通信2016年冬号より】

このたび〈もやい〉のカンパチラシがリニューアルいたしました! 今回はその写真を撮影してくださいました写真家の高松英昭さんに、特別エッセイを寄稿いただきました!

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路上には「地見屋(じみや)」という仕事がある。ひたすら地面を見つめて歩き、路上に落ちているお金を拾い生活の糧にする。小銭が頻繁に落ちている場所を見つけてあたりを見回せば、自販機が周辺に多いことに気付く。それならと、自販機のつり銭受けにそっと手を入れてみる。小銭を見つけることが少なくなったら、電子マネーが広がっていることを実感するかもしれないし、最近、シケモクが少なくなったと感じれば、路上喫煙禁止のエリアが増えていることに気付くかもしれない。道端に咲くヒメジョオンの白い花を眺めて、初夏を感じることだってあるかもしれない。とにかく、路上を丹念に見つめることから仕事が始まる。

同じ路上でも、見えている風景は人によって違う。急いで仕事に向かう途中なら、路上の風景はまったく記憶に残らず、なんの感情も抱かず通り過ぎてしまう。ただ移動するだけだから、路上の風景は何の意味も持たず、頭に入り込まない。信号待ちをして、信号機の色が変わる瞬間だけが鮮明に記憶に残っているかもしれない。

写真家という仕事は「地見屋」と似ている。目に映る風景を丹念に見つめて何か意味あるものを見つけ出し、それらを拾い集めるように撮影して生活の糧にする。以前、〈もやい〉のスタッフの案内で路上生活をしていた男性が暮らすアパートを訪ねたことがある。とても暑い日だった。初夏の強い太陽光が窓際に干そうと手にしたピンク色のシャツをくぐり、室内に吊るしてある青いシャツを透過し、ピンクと青を鮮やかに浮かび上がらせながら部屋の中に差し込んでいる。レンブラントの絵画を眺めているようだった。色彩と光と影が適切に混じり、とても美しい風景だった。

路上生活を経て再び部屋を取り戻したという彼の物語が私の目玉にじわりと染み込み、より美しい風景に仕立て上げたのかもしれない。普段なら、独居老人が洗濯物を干している風景として、何気なく通り過ぎてしまうかもしれない。とはいえ、当たり前の日常生活のなかに、ささやかな幸せを感じる美しさがあることに気付き、得した気分になる。安心して暮らすことができる場所を得た彼の幸福感が、私の風景と重なったようだ。

どのような眼で見るかで、風景は人それぞれまったく違うものになる。その人の感情や価値観によっても、風景は左右される。「柳の下の幽霊」のように見えないものが見えたり、その逆に、見えるものが見えないことだってある。それほど、個々が見ている風景は曖昧なもので、自分に都合良く構成されている。けれど大抵の場合、自分が見ている風景が絶対的な現実だと思い込んでしまう。見えている風景が他者の見ている風景と同じだと錯覚して、他者の風景と自分の風景を重ねてみることなどほとんどない。そんな面倒なことをしなくてもと、億劫さが先立つ。

最近、「貧困が見えにくい」という言葉をよく聞く。けれども、貧困の場所にいる人たちが見ている風景には、貧困がはっきりと存在しているはずである。「はっきり見える」ものが、自分の風景の中では「見えない」だけかもしれない。まずは、見えている人と同じ地平に立って、丁寧に丹念に風景を見つめるしかない。「地見屋」の仕事は、そこから始まる。(高松英昭)

高松英昭さんプロフィール
写真家。1970年生まれ。新潟県育ち。大学卒業後、日本写真芸術専門学校にて写真を学ぶ。日本農業新聞を経て、2000年からフ
リーの写真家として活動を始める。食糧援助をテーマにアンゴラを取材、インドでカースト制度に反対する不可触賤民の抗議行動ラリーを取材。「路上で生きる人」をテーマに取材を続ける。2005年、写真家の友人たちと写真集『Documentary 写真』を自費出版。2009年、写真集「STREET PEOPLE」(太郎次郎社エディタス)を出版。

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